明日で20年。あの日を振り返れば、今の安穏はマズい。

阪神淡路大震災から20年。
あの日あの時。




私はあの日から出勤だった。
仕事場はシーズンオフ?の時期で、
派遣だったのだけど、
時給も発生しないわけだし、
win win。
3週間の休暇をくれた。






で、年末年始大阪の実家でゆっくり過ごし、
浜松にあの日の前日に帰って来たのだった。





夜はたぶん外食して、どこぞで飲んで帰ったと思う。
そして、翌朝。
いつになく早く目が覚めた。
時計を見ると6時になっていなくて、
この中途半端なタイミングで起きちゃうなんて悔しいなぁ。
と思ったことを覚えている。




その時、不気味で恐ろしい音が聞こえてきたのだ。
それは低く小さかったが、遠いところから次第次第に近づいてきたと思うと、
鈍く小さいけれど、どこか力強く界隈を揺らした。





ただ事ではない。





飛び起きてテレビをつけると、
NHKで宮田修アナウンサーが、
「ただいま、大阪で大きな地震がありました」
と繰り返し、繰り返し話していた。






親とは早々に連絡がついた。
それは地震から少し経ってからで、
まだ、日本中が安否確認をしようとしていない頃、
まだ、震源地がどこなのだか、
神戸界隈があのようなことになっていると言うことも、
まだマスコミも掴みきれていない頃。






最初に書いたけれど、
その日は、私はその年の初出勤だった。
後ろ向きの私をもっと後ろ向きにした。





被害の大きさが、
次第次第に通勤の車のラジオや、
職場のテレビで伝わってくる。





職場では、映画やドラマを観ているかの如くで、
興味本位の野次馬根性。
「これは、死者が5,000はいくねぇ」
などと話していて、
拳を握り締めたことを覚えてる。





神戸や西宮、大阪の友達の安否確認は、
浜松と言う場所からのせいか、
早々にできた。
東京の友達が、全く電話が通じないどころか、音も鳴らないと連絡してきたので、
大阪のご実家に連絡入れたりもした。




災害があった時、
大都市からの電話は、本当に通じないらしい。
何かありましたら、この文章を思い出してご一報ください。





…話戻して、
その日もその次の日も、
そのまた次の日も…
仕事から戻ると、テレビの前に座って、
大好きだった神戸の変わり果てていく姿を
ただただ呆然と眺めていたことを覚えている。






あれから20年。
いろんな教訓を様々な方々から教えてもらった。
友達は貴重だ。
でも、私、今何ができているだろう。






東海、東南海、南海地震が迫っていると言う。
…実は、私は少なくとも後15年くらいは来ないと思ってるんだけど…
これがたぶんいけないのもわかってる。
備えあれば憂いなし。
富士山も怖いって言い始めてるしね…
明日を教訓の日として、
「備えよ常に」
考えてみよう。